説教:ルカ 6,1-5 (Click here to read and listen this passage)
なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。なぜ、あなたの弟子たちは、断食しないのか。なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。これらは主イエスに対するファリサイ派の人々の質問です。今日の福音で、またファリサイ派の人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」と主イエスに聞きます。ファリサイ派の人々はいつもなぜ、どうしてという質問をするのです。
そういう質問は哲学を勉強したとき、よくあったけれども、ファリサイ派の人々の質問は目的が違います。私たちがなぜという質問をするのは、ものの真実を知りたい、ものの起源が分かるようになりたいからですが、ファリサイ派の人々がそういう質問をするのは、主イエスと弟子たちをただ批判したかっただけだと思います。この態度は主イエスに度々注意されます。例えば、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とか、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とか、「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」などです。
ところで、なぜ、安息日にしてはならないことを、弟子たちはしたのでしょうか。弟子たちがファリサイ派の人々に叱られたのは、麦畑で麦の穂を摘んで食べたからではなく、安息日にこのことをしたからです。安息日を守る戒律の深い意志は何でしょうか。弟子たちを守るために、主イエスは人間の必要が儀式の習慣よりも優先されていることを聖書から論じています。ダビデは自分も供の者たちも空腹だったときに、神の家に入り、供えのパンを取って食べました。イスラエルの伝統によって、すべての安息日の朝には十二のパンが、神聖な場所で黄金のテーブルの上に神の前に置かれました。それぞれのパンは、イスラエルの十二部族の一つ一つを表します。 それらは神の存在を表してもいるので、ただ祭司のほかには誰も食べてはなりません。ダビデは、人間の必要性が、ルールや儀式の規則より優先することを理解しました。
どうしてファリサイ派の人々は規則や規制を超えて、神の憐れみを認識しなかったのでしょうか。儀式を守ろうとする熱意のため、彼らは神のいつくしみを理解することができませんでした。「このパンは私の体である」というイエスの言葉は、天からの真のパンをほのめかしています。このパンは主イエスを信じる者すべてに与えられます。ダビデの息子、人の子である主イエスは、「安息日の主」と自らを宣言されます。主イエスは安息日にお癒しになり、困っている人々に憐れみをお示しになります。疲れた者、重荷を負う者は主イエスに真の休みとリフレッシュメントを見つけることができます。つまり、安息日とは主日、すなわち日曜日だけではなく、いつでも主イエスに会って、休んで、リフレッシュする時だと思います。安息日の休みは神様の善良さと良いわざを思い出して、祝うための時間だと思います。
人の子は安息日の主である。このみ言葉を聞いた私たちは、このミサの中で主イエスの存在によってリフレッシュすることができるように、神に願いましょう。
ディン・シロハ
Friday, September 2, 2011
安息日の主
2011年9月3日
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Jp Misa
2011-09-02T23:52:00+09:00
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